神との合一が起こると「私が体験した」と言えなくなる?──それでも私が語る理由(前半)
「語れない」境地を、なぜ言葉にするのか
「神との合一に至ると、自我が消滅する。
だから『私は神との合一体験をした』という言い方ができなくなるはずでは?」
「神との合一が起こると、行為者はいなくなると思うのですが。
それなのにどうしてSHOICHIは、そのような表現をするのですか?」
こんなご質問を頂きました。
今回も書き始めたら長くなってしまったので、前半・後半に分けて投稿します。
まず前半では、この問いに対する“結論”と、私があえて語る理由を整理します。
結論:あなたのおっしゃるとおりです
まず最初に、結論から。
あなたのおっしゃるとおり、神との合一が起こると、行為者としての「私」は消えます。
したがって厳密には、「私が体験した」とは言えなくなります。
究極的な視点から言えば、
“何も語れない”
という方向性は筋が通っています。
だから「私が体験した」という表現は、矛盾して聞こえるかもしれません。
それでも私があえて、
「神との合一が起こった」
「神との合一に至った方がいる」
という言葉を使い、情報を公開しているのには、明確な意図があります。
私が語る目的は「理論」ではなく「愛の情報の分かち合い」です
私が語る目的は、単なる理論を超えた「愛の情報の分かち合い」です。
そして、さらに具体的に言うなら──
それは次の人への「手がかり」になるからです。
私は“先人の手がかり”によって助けられてきました
私自身、過去に神との合一に至った方々、たとえば仏陀、キリスト、空海、ヨガナンダなどが残した言葉や情報から、神との合一に至るための多くのヒントと助けを受け取りました。
本来、語り得ない境地を、あえて言葉にして遺してくれた。
それは後に続く者にとって、極めて貴重な「手がかり」でした。
だから今度は、私が受け取ったものを「次へ渡すリレーのバトン」として、あえて情報を公開しています。
「語れないから黙る」だけが正解とは限りません
もう一つ、大切だと思っていることがあります。
確かに、神との合一の立場からは「語りようがない」面があります。
しかし、
「語れないから黙る」
という選択だけが、唯一の正解とは限らない。
私はそう考えています。
なぜなら、言葉が必要な段階の人にとって、言葉は「真理への橋」になり得るからです。
奇跡講座でも、言葉は集中を助ける有用な道具である、と述べられています。
だから私は、後に続く方々への「光のバトン」として、最も誤解が少なく、最も伝わりやすい便宜上の表現として、
「神との合一が起こった」という言葉を選んでいます。
実際に、語り続けたことで“恩恵”が生まれています
ここからは少し現実的な話になりますが、事実として、私がこの約1年間語り続けてきたことで、実際に恩恵が生まれています。
※話がややこしくなるので、ここでは分離の世界目線で書きます。
そのあたりを汲んで読んでください。実際には夢の世界の話です。
私が自分の体験や情報を公開してきた結果として、この1年で2人の方が、実際に神との合一に至りました。
これは、神との合一を「沈黙」の中に隠さず、ごく限られた選ばれた人の特権にもせず、誰にでも起こり得る「可視化されたプロセス」として、情報を共有してきた結果だと確信しています。
「語ること」さえも、私の個人意志ではないと感じています
さらに踏み込むなら、この「語ること」自体も私の個人の意志ではなく、神の表現の一部であると感じています。
私は神との合一後、しばらくの間、一人静かにしていました。
しかしRuriさんが現れ、不思議な流れに導かれるように、「至福の部屋」を通じて語る状況が整っていきました。
「至福の部屋」は、私の個人的なアイデアや野心で運営しているのではないのです。
だから「神との合一が起こった」と表現すること自体も、一つの現れ(神の表現)なのです。
理論的な矛盾を理由に、この自然な流れを封じる必要はない。
私はそう考えています。
「公言しない文化」が生む“ぬるま湯構造”のリスク
奇跡講座系コミュニティの中には、「神との合一に至ったと公言するのはご法度」になっているところもあると聞きます。
それは一見、教義に忠実で、筋が通っているように見えます。
しかし運営側の視点に立てば、それは同時に──
● 誰も合一に至らなくても責任を問われない
● 目的が曖昧になりやすい
● 居心地は良いかもしれないが、変化の速度が落ちやすい
という“ぬるま湯構造”を作ってしまう側面もあります。
誰も「私は神との合一に至った」と言わなければ、運営にも参加者にもプレッシャーはなく、居心地は良いかもしれません。
しかしその結果、
実際に神との合一に至っている人が、コミュニティの大きさに比べて極めて少ない。
あるいは、実際にはほとんどいない。
そんな可能性も生まれます。
そうなると延々と奇跡講座を学び、それなりに居心地は悪くないが、癒しは亀のような速度でしか進まず、
神との合一は「神のきまぐれな恩寵次第」で、「いつか私にも起こるといいな」という夢物語にすり替わってしまうリスクがあるのです。
(後半へ続きます)
後半ではまず、私がよく使う
「神=愛=私」
「あなたは神そのもの」
という表現が、肉体の私(分離の私)の話ではないことを整理して説明します。
そのうえで、純粋非二元の領域では「ただ一つ」しかないという前提に立つと、なぜ便宜上「私」という言葉を使わざるを得ないのか──日常言語の限界も含めてお伝えします。
さらに、
● 「行為者がいない」のに、なぜ“語り”が起こるのか
● 「語ること」と「沈黙」はどう両立するのか
● 合一体験をオープンに共有することが、なぜ“次の人の手がかり”になるのか
● そして、その共有文化がコミュニティ全体にもたらす具体的な推進力
このあたりを、後半で実感ベースで深く掘り下げます。
(以降、後半に続きます。)


