至福とは あなたの本性
至福は、一元にあり、唯一の実在であり、分割できないただ一つのものです。
至福は愛とも、光とも、神とも言い換えることができます。
言葉は違っていても、指しているものは同じです。
そして本当に実在するものは、それだけです。
仏教的世界観では「涅槃(ニルヴァーナ)」に近い概念として語られることがあります。
それは煩悩や苦しみから完全に解放された境地に没入することを指します。
キリスト教的な世界観では、神と完全に一体となる天国での永遠の幸福を、至福の境地と見なすことがあります。
ヒンドゥー教的世界観では、アートマン(真我)とブラフマン(宇宙の根源)が一体化したときに得られる深い至福(アーナンダ)と説明されます。
また古代ギリシャ哲学では、至福は「エウダイモニア」として議論され、これは「人間としての最善の状態」を意味します。
「至福の聖母」とも呼ばれるアーナンダマイ・マーは、至福は自己の本質そのものであり、それは外的なものではなく、内に根ざしていると言い、下記のように語っていますが、私も同意見です。
「至福はあなたの内側にある。それは常にそこにあり、外界の何かによってもたらされるものではない。」
「人間がエゴや自己中心的な欲望を手放すとき、至福が明らかになる。」
「個人としての”私”という感覚が溶けて宇宙的な一体感に溶け入ることで、至福が得られる。」
「自己の小さな枠を超えて、全てとのつながりを感じたとき、あなたは限りない至福の中に生きるでしょう。」
20世紀のインドの偉大な霊的指導者ラマナ・マハルシもまた、「至福」は自己の本質であり、私たちが本来持っている永遠の性質であると語っています。
「至福」は自己(アートマン)そのものであり、私たちが探し求めるべきものではなく、既に内に存在しています。
真の自己は至福そのものです。
至福はすべての人が持つ普遍的な性質であり、自己探求の最終的な結果として現れます。
人は誰でも自己の本質に気づき、最終的に至福に至るのです。
そして自己の本質に目覚めた後は、永遠なる至福で生きることになります。
至福は、一時的な感情ではありません。
悟っていない人がイメージする、二元的な世界の「喜び」や「幸福」とはまったく違います。
至福は非二元的な、完全なる自由と安らぎであり、愛そのものです。
瞑想や祈りや赦しは、それ自体が目的ではなく、永遠なる至福を体験するための道具です。
永遠なる至福を生きるようになると、瞑想や祈りや赦しは必要なものではなくなります。
内も外もなくなるので瞑想しようがなく、祈りの対象がなくなるので祈りようがなく、赦しの対象がなくなるので赦しようがなくなるのです。
違う表現で言うならば、常に瞑想状態で生き、常に祈りの境地がベースにあり、常に今ここで愛と平安に没入し、常に愛と光と一体化しながら生きているひとが、至福な人生を味わうことができると言えます。
少し難しく感じるかもしれませんが、ひとたび至福になれば、それはとてもシンプルで簡単な生き方であることがわかります。
分離した今の状態で生きるほうが、よほど複雑で難しい生き方なのです。
それは過酷で苦しい生き方です。
至福は、言葉では言い表せないほど素晴らしいものです。
私は毎日、歓喜の至福を味わいながら生きています。
すべての人の本性は、至福です。
人は本能的にそのことを知っているので、すべての人は絶えず「幸福」を探し求めています。
あなたは要するに、ただ本当のあなたになりたがっているのです。
至福はあなたの本性であり永遠の性質なので、いつか必ず見つけ、至福そのものになることができます。
至福と一体化したとき、あなたは完全に満たされ、至福そのものとなります。
そして永遠に「本当の自分」である至福として存在するようになります。
今日もあなたのことを応援しています。
