至福、そしてサマーディ
アイデンティティのお引越しが起こり、神との合一が起こると、至福はいよいよ安定したものになっていきます。
目を開けていても、閉じていても関係なく、至福に浸って生きるようになっていきます。
そのように生きていると、次第に目を閉じたとき、ものすごく深い境地に努力なく入り込むようになっていきます。
それはヨーガ・スートラ(パタンジャリ)でいうところの、深い瞑想の最終段階、サマーディです。
至福が日常になってくるときに起こるサマーディは、ニルヴィカルパ・サマーディと言われるものです。
それは瞑想中に対象や思考、さらには自己意識すら消失する状態であり、完全な静寂と合一を体験し、純粋な存在そのものとなる境地で、「形なき集中」とも呼ばれることもあります。
仏教でいうところの「三昧」と同じものです。
このサマーディに入ると、とても強いダイナミックな至福感に没入します。
言葉では表現できない深い喜びや幸福感、満たされた感覚がやってきて、それは外部の条件や物質的な満足からではなく、内面的な体験から生じます。
深まってくると、少し目を閉じたいなと思い目を閉じると、すぐにサマーディに没入するような感じになります。
それは一時的な快楽やエクスタシーとは異なり、永続的で純粋な至福の感覚です。
この世で味わうどのような行為、どのような体験からも、このサマーディを経験すると色褪せたものに感じられます。
美味しいものを食べるとか、旅行に出かけるとか、仲間と楽しく語り合うとか、欲しいものを買うとか、そういったこともそれはそれで素晴らしいですが、
そのようなもので自分を喜ばせる必要から解放されます。
至福、そしてサマーディは、それらよりも比べ物にならないほど素晴らしいので、自然とあらゆる欲から解放され、自由になっていきます。
心が完全に静まり、思考や感覚、外界の影響から解放され、物質的な欲望や苦しみを超越し、永遠の至福を味わいながらサマーディに没入しながら生きると、人生から重要なことは何も無くなっていきます。
サマーディは、至福とともに育てていくことができます。
最初の段階では、集中が必要で、うまくいけばサマーディに没入できる、という感じです。
そのうち、至福とサマーディは頻繁に起こるようになり、無条件で永遠の至福・サマーディに没入する時間も長くなっていきます。
至福とサマーディが定着してくると、それは瞑想状態を超え、日常生活の中でサマーディと至福が持続する自然な状態になっていきます。
至福は生活そのもの、人生そのものに溶け込んでいきます。
至福は、サマーディにおいて体験される「二元性の消失」の直接的な結果とも言われ、自己と他者、内と外といった区別が消えたとき、純粋な一体感が至福として現れます。
至福で生きるとき、個人的な苦しみや心の葛藤は完全に消え、何も求めなくなっていきます。
そのようになって本当に生きていけるのかと、たまに質問されることがありますが、それはそれはうまく生きていくことができます。
むしろ、今までよりも遥かにうまく生きていくことができます。
それは、不満・恐れ・怒り・嫌なこと・悲しみなどからどんどん離れていき、幸せ・やすらぎ・愛・喜びなどは、どんどん増えていくように進んでいきます。
求めなければ、必要なものは自然と現れてくれるようになります。
そして求めていたときより、はるかに素晴らしいものが、努力なく向こうからこちらにやってきてくれるのです。
もう欲は無いのですが、「そういえば、昔から本当に欲しかったものだな、ずっと望んでいたものだな」と思うような出来事や状況が、なぜか自然と目の前に現れてきたりします。
そのような感じで、不思議と人生はとくに困ることなく進んでいくのです。
至福は本当に素晴らしいと思います。
これを読んでくださっているあなたとも、一緒に分かち合えたら嬉しく思います。
あなたは愛であり至福であり、光そのものです。
今日もあなたのことを応援しています。
