心眼で世界を見る
私は常に、目には見えない光を見ています。
その光は、かたちのある世界を超えたところで輝いている不思議な光です。
その光はただただ美しく、どれだけ眺めていても飽きることはありません。
その光は、永遠なる光であることが直観的に感じ取れる光で「この光だけが唯一実在している」という真実を無言のまま伝えてきます。
そしてその光と完全に一つになるという体験をして以来、私は光そのものです。
光と完全に一つになるという体験をした瞬間、
すべてが私であり、愛であり、神であり、至福そのものであると、
知識ではなく存在そのものとしての深い理解がやってきました。
その理解には、思考の余地はなく、言葉に翻訳する時間すら存在せず、ただ「ある」ことの絶対的なリアリティだけがそこに在りました。
このような体験以降、私はすべてを神・愛・光・至福としてしか見れなくなってしまいました。
「肉体としての私」と「世界」、「内」と「外」、「個」と「神」というすべての分離が幻想であり、
本当は最初から、永遠にすべてが一つであるという目線でしか見れなくなってしまいました。
その真理に触れたときに見えた光は、肉体の目では決して見ることのできない光です。
その美しい光は変化せず、動かず、唯一のものですが、どんな人を見ても等しくその光が見えます。
その光は目を開けていようが閉じていようが関係ありません。
そしてどんな視覚よりも鮮明で、どんな感覚よりも確かなものです。
その光は、肉眼に1%も頼ることのない心眼で、常に見ることができます。
心眼はその光を見ることができますが、同時に物事の奥にある本質や、
分離の背後にある一体性を見抜くことができる目でもあります。
その不思議な心眼は、本当はすべての人の内に備わっています。
そして、私たちが肉眼で「見る」という行為から力を抜き、撤退し、
思考の主導権を放棄するとき、心眼は自然と静かに開かれていくように思います。
それは努力して開くものではなく、むしろ「何もかも捨て去った後に、気づいたら見えている」ようなものです。
その光との合一体験が起こると、分離という幻想は完全に消え去ります。
そして、ただ在るものとしての愛と光と至福が、何の抵抗もなく現れてきます。
それは、最初からあったことがわかります。
そのような体験が起こると、見るものと見られるものの境界も完全に消えていきます。
観察する主体と対象の二元的な関係は崩れていきます。
「私」が「光を見る」のではなく、「その光が私であり、私が光そのものである」という完全な一致が起こります。
この一致は、理屈や理解を超えたものです。
それは、愛=神=私=すべて=至福という等式が、内なる確信として立ち上がる瞬間でもあります。
ずっと見つけたかったものを見つけたような、ようやくすべてが収まるところに収まったような、居心地の良さに満ちた体験です。
それは肉体の目に頼らない非二元の境地です。
純粋な一元の世界です。
罪悪感・欠乏感・無価値観・恐れ・不安・怒り・・・そのようなものは霧が晴れるように消えてしまいます。
そして、このときに感じられる至福は、喜びや快楽といった感情的な動きではなく、もっと根源的で、静かで、出来事に何も左右されない永遠なるものです。
その至福の中には、すべてを許し、すべてを包み込む愛があり、それが神であり、私であり、ただひとつのものとして在るのです。
それは何も変わらず、常に存在している実在です。
そして、それ以外は何も存在していないのです。
心眼で見るということは、分離の眼とは真逆の、愛のまなざしで見るということです。
心眼で世界を見るとき、世界はまったく新しいものとして現れます。
でもそれは、決して外側の風景が変わるわけではありません。
世界が急にキラキラと輝きだすわけではありません。
オーラやチャクラなどとは無関係です。
ただ、愛・光・至福は同一のもので、それだけが実在しているので、
それ以外のものは見えなくなります。
心眼は、常にそのように見えます。
そして心眼が育っていくと、見ていたものの境界が消えていきます。
外と内の区別が消え、自分と他者との区別が消え、はじめから愛・光・至福しか実在していなかったということに、気づくようになります。
私たち一人ひとりの奥深くには、いつでもこの心眼が静かに息づいています。
そして、その心眼がほんの少しでも開かれるとき、私たちは思い出していきます。
自分が愛そのものであり、光そのものであり、至福そのものであることを。
すでにそれであったことを。
すべてであったことを。
すべてが愛であり、すべてが神であり、すべてが私自身であったことを思い出していくのです。
あなたの本性は至福です。
今日もあなたのことを応援しています。
