見ている私と、見られている私 ― 自己嫌悪が終わる"視点の転換" - 至福の部屋

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見ている私と、見られている私 ― 自己嫌悪が終わる”視点の転換”

ずっと、自分のことが好きになれなかった。


どれだけ頑張っても、「これでいい」と思えない。


少しでも失敗すると、自分には価値がないように感じてしまう。


ちゃんとしていなければ、きっと誰にも愛されない。


そんな思いを、心の奥にずっと抱えながら生きてきた女性がいました。


人から見れば、十分に頑張っている。


家族のことを思い、日々を懸命に生きている。


それでも本人の心の中では、いつも厳しい声が自分を責め続けていました。


「まだ足りない」


「もっとちゃんとしなければ」


「こんな自分ではだめだ」と。


その苦しさの根っこにあったのは、幼い頃からどこかで抱いてしまった、


「私は望まれて生まれてきた存在ではないのかもしれない」


という、あまりにも深い悲しみでした。



だからこそ、認められたかった。


ちゃんとしている人だと思われたかった。


失敗しないように、嫌われないように、価値のある自分であろうとして、ずっと気を張って生きてきたのです。



けれど個人セッションの中で、彼女は少しずつ気づいていきました。


自分を追い立てていたものの正体に。


人の評価が怖かった本当の理由に。


そして何より、いちばん自分を嫌っていたのは、自分自身だったのだということに。



そこに気づくのは、決して楽なことではありません。


でも、ただ苦しいだけでは終わりませんでした。


私との対話の中で、彼女は初めて、今までの自分を少し離れたところから見つめるように感じ始めます。


うまくできなかった自分も、感情的になってしまった自分も、本当はずっと苦しかったこと。


必死だったこと。


誰よりも頑張ってきたこと。



それが客観的に見えた瞬間、責めるしかなかった自分に対して、はじめてやさしい言葉が生まれました。


「私は全部知ってるよ」


「どれほど一生懸命やってきたか、よく知ってる」


「できなかったと思う時も、そのときの自分の限界まで、全力でやったのは、よくわかってる」


「そのときは、そうするしかなかったっていうのは、よくわかってる」


「そんな自分を、嫌いになんてなれない」



それは、非の打ち所がない人になることではなく、置き去りにしてきた自分の心を、やっと迎えに行くような時間でした。


これまでの彼女は、自分を厳しく見張ることでしか前に進めないと思っていました。


でも本当は、必要だったのは罰することではなく、理解することでした。


追い込むことではなく、寄り添うことでした。



自分の弱さも、混乱も、未熟さも、「だめな証拠」として見るのではなく、


「それほど傷つきながらも懸命に生きてきた証」として見られたとき、


彼女の中で、長いあいだ凍っていたものが少しずつ溶けていきました。


自分への嫌悪感が大きく溶け去っていきました。



そして最後には、


「何があっても見捨てない、応援するしかない」


という温かい視点を持てるようになっていったのです。



自分を好きになれない。


そう感じている人は少なくありません。


でも、自分を好きになれないのは、あなたが悪いからではありません。


そうならざるを得ないほど、心が傷ついてきただけなのかもしれません。



もしも、ずっと自分を責め続けてきた人がいるなら…


もしも、何をしても満たされない苦しさを抱えているなら…


その人にもきっと、自分を責めるのではなく、理解し、受けとめ、愛していける日が来ます。



彼女がそうだったように。


人は、本当に癒されていくと、もう自分を嫌い続けることができなくなるのです。



あなたのことを、今日も応援しています。

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