分離の世界から純粋非二元へ──奇跡講座が教える光の視座
奇跡講座が示す“本当の意味”とは?
奇跡講座 T-2.V.18:2 に登場する祈りの言葉。
「私は、真に助けとなるためだけにここに居る。」
この一文は、分離の視点から読むのか、純粋非二元の視座から読むのかによって、まったく別の意味に変わります。
多くの学習者が、ここで大きな誤解をしてしまいます。
この記事では、この祈りが本来どの視座で読まれるべきものなのか、その核心に触れていきます。
奉仕宣言ではない
一般的な読み方では、この祈りは次のように理解されがちです。
- 人の役に立つために私はここにいる
- 誰かを助けるための使命を果たす
- 奉仕者として努力する宣言
しかしこれは、奇跡講座が意図している本質とは大きくかけ離れています。
ここで言う「私」は、人格の“わたし”ではありません。
「努力して助けるわたし」
「役に立つわたし」
「使命を背負うわたし」
を示しているわけでもないのです。
「真に助けとなる」とは、“行為”ではなく“在り方”
奇跡講座が明確にしているのは、
助けとは行動ではなく、意識の在り方である
ということです。
誰かを助けようとする姿勢ではなく、
「相手を欠けた存在として見ない」
という視座そのものが、もっとも深い助けになります。
つまり、
- 相手を光として観る
- 相手の完全さを観る
- すでに癒されていることを認める
これこそが、奇跡講座がいう“助け”なのです。
あなたが光の視座で在るとき、世界(相手)のほうがその周波数に共鳴し、自然に癒されていきます。
「真に」とは “自我を通さない” という意味
祈りの言葉にある「真に」は、“自我を通さず、聖霊の視座として在る” という意味で使われています。
自分が頑張るのではなく、
光としてただ在る。
結果は神に委ねる。
そこに「真の助け」が生まれます。
「ここにいます」とは “今この瞬間に身を委ねる” 誓い
この「ここ」は、場所を指していません。
奇跡講座は、過去も未来も幻想だと言います。
この祈りの「ここ」は、
- 今この瞬間に完全に委ねる
- 結果を期待せず、神に委ねる
という姿勢そのものを示しています。
使命や努力を背負うのではなく、
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いま、わたしは、
愛そのものとして、ただ在ります。
それが(目の前に映る)世界を
もっとも深く癒す在り方であると
知っているからです。
——————–
このような優しい在り方を示す言葉なのです。
その在り方こそが、世界を最も深く癒すのであり、この静かな決意がこの祈りの本質です。
分離の視座では“まったく違う意味”になってしまう
分離した意識のままでは、次の前提から自由になれません。
- 赦すべき相手がいる
- 私には足りない部分がある
- 努力によって成長しなければならない
この前提をもったまま祈りを読むと、本質から外れてしまいます。
しかし純粋非二元の視座では、まったく逆の理解になります。
- 実在の世界では何も起きていない
- “自分”も“相手”も存在していない
- 癒しはすでに完了している
- 神はただひとつの光として在る
読む階層が違えば、同じ文章でも意味は天と地ほど変わるのです。
神との合一・至福を望むなら、読む視座が重要
どれほど真面目に学んでも、分離の視座で学んでいる限り、奇跡講座が本当に導こうとしている地点──「神との合一」には到達できません。
必要なのは、
その視座へ連れて行ってくれる存在との出会い。
そして、気づきの質の転換です。
純粋非二元の共鳴に触れたとき、癒しも目覚めも急速に展開していきます。
この祈りが本当に語っていること
まとめると、この祈りは決してあなたに
- 使命を課す
- 努力を求める
- 誰かを助ける役割を背負う
といったことを言っているわけではありません。
奇跡講座が示しているメッセージは、驚くほどシンプルです。
光として “今ここ” に在りなさい
その在り方を通して、
世界(相手)は自然に癒されていくのだから。
これが、「私は、真に助けとなるためだけにここに居る」という祈りが持つ、静かで深い本質です。
あなたは光です。
あなたは愛そのものです。
今日もあなたのことを応援しています。


