神との合一が起こると「私が体験した」と言えなくなる?──それでも私が語る理由(後編)
「語れない」境地を、なぜ言葉にするのか
(前編の続きです)
前編では、
● 神との合一が起こると、行為者としての「私」は消える
● だから厳密には「私が体験した」とは言えない
● それでも私は、次の人の「手がかり」となるように、便宜上の言葉で語っている
という話をお伝えしました。
後編では、もう一歩だけ踏み込みます。
「神=愛=私」という表現は何を指しているのか。
そして、体験を共有する文化がなぜ大きな力になるのか。
「神=愛=私」は、肉体の私の話ではありません
私はよく、
「神との合一が起こると、神=愛=私になる」
とお伝えしています。
同時に、
「あなたは神そのもの」
とも言います。
ただし、ここで言っているのは、分離の世界の目線(肉体=私)での話ではありません。
仮に、世界の見え方を大きく
- 分離の世界
- 非二元の世界
- 純粋非二元の世界
の三層として説明するとしても、分離の世界の私(=肉体としての私)が神とイコールになる、という意味ではありません。
そうではなく、いつもお伝えしているように、神との合一が起こることでアイデンティティが純粋非二元へ移行し、その視点から見たときに「神=愛=私」となる、という意味です。
純粋非二元では「ただ一つ」しかない
純粋非二元の領域では、分離がありません。
意識が二つあるわけでもありません。
永遠不滅で、分割しようのない、“ただ一つ”しかありません。
その境地においては、「それが私だった」としか言いようがない。
そのことを指して、私は「神=私」と表現しています。
そして究極的には、その純粋非二元的な意味での「私」という言葉すら溶けていき、奇跡講座が言う
「愛だけが実在である」
という表現に収束していきます。
それでも「私」という言葉を使う理由:日常言語の限界
ここが難しいところです。
このことを説明するとき、「私」という言葉を一切使わずに、しかも誤解なく、理解しやすい形で伝えるのは、日常言語の限界として、かなり難しい。
だからこそ私は、便宜上「私」という言葉を使いながらお伝えしている面があります。
「矛盾しているように聞こえる」のは、あなたの理解が正確だからこそ、でもあります。
そのうえで、私は“伝える”という行為を、次の人のために引き受けている、ということです。
体験談を共有することの恩恵:「生のデータ」が道しるべになる
ここから、体験談を共有することの恩恵の話に戻ります。
「至福の部屋」には、神との合一に至った方が、その体験をありのままに「至りました」と言える、
オープンで透明性の高い、陽気な土壌があります。
そして、それを全員で祝福し、体験を共有することは、コミュニティ全体にとっての「神との合一に至った生の体験談」となり、次のような具体的な手がかりを私たちに与えてくれます。
● どの言葉・どの理解が飛躍のきっかけになったのか?
● 何をした時に、大きな癒しが起こったのか?
● 何が「神との合一」の決定打になったのか?
● 「神との合一」とはどのような体験だったのか?
● そこまでの経緯を振り返り、いちばん大切だと思うことは何か?
● 逆に、遠回りだったこと、不要だったことは何か?
こうした「生のデータ」を共有し、積み重ねていくことで、コミュニティ全体が神との合一へ向かう強力な推進力を得ていきます。
実際に、
● 学びが体験として深く浸透していると感じる
● 確実に癒されているという確かな手応えがある
● 神との合一が自分にも起こりえると実感できる
という、リアルな感覚が芽生えてきます。
さらに素晴らしいこと:合一に至った方が“去らずに支えてくれる”
さらに素晴らしいのは、合一に至った2名の方々がクラスを去るのではなく、
「まだ至っていない方のために」
と、自発的に体験を積極的に語り、サポートに回ってくれていることです。
これは、すべてを分かち合い、共有する文化が生んだ、計り知れないプラスの効果だと思っています。
運営としての決意:「思い出すまで一緒にいる」
私は運営側として、常にこう伝え続けてきました。
「あなたは神そのものであり、それを思い出すまで一緒にいる」
この決意を言葉にし続けることで、運営側も参加者も、互いに真剣に取り組む空気が醸成されています。
「語ると自我が強まる」への私の見解
よく、「神との合一を語ると自我が強まる」という意見を耳にします。
しかし、神そのもの、愛そのもの、光そのものを知った人が、いまさら「私は神だ」と誇示して自我を増幅させることなど、現実的には起こり得ないと私は思います。
そのような心配は、実態に基づくというより、何世代も前の古い理解や、いわゆる「霊性マウンティング」への警戒心から来ている場合が、ほとんどではないでしょうか。
少なくとも「至福の部屋」で神との合一を言葉にするのは、誇示のためではありません。
純粋に、「次の人のための共有と貢献」のためです。
最後に:この言葉は“特別になるため”ではなく、バトンを渡すため
私たちが「神との合一が起こった」と言葉にするとき、それは「特別な存在」になるためでも、
「誰かより上に立つため」でもありません。
むしろその逆です。
行為者としての私を誇るための言葉ではなく、同じ道を歩く方が迷わず進めるように、手がかりを残し、学びを分かち合うための、便宜上の表現に過ぎません。
あなたが今どの段階にいても大丈夫です。
神との合一を語ることは、あなたにプレッシャーをかけるためではなく、「いつか思い出す」ことを信じて、必要なヒントを受け取り合える場を育てるためにあります。
焦らず、比べず。
今ここで起きている癒しと理解の一歩を、いっしょに大切にしていけたら嬉しく思います。
今日もあなたのことを応援しています。

