非二元がわからなくても幸せな人と、神との合一に至った人は何が違うのか(前半) - 至福の部屋

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あなたへのメッセージ

非二元がわからなくても幸せな人と、神との合一に至った人は何が違うのか(前半)

努力で整える幸せと、自然に溢れる幸せ──奇跡講座と神との合一

「非二元もよくわからない。神との合一にも至っていない。

それでも、幸せそうな奇跡講座の学習者はいると思います」

そんなご質問をいただきました。

そして続けて、

「そのような方と、神との合一に至り“純粋非二元”の境地にいる方とは、何が違うのでしょうか?」

「同じように幸せなのであれば、それでいいのではないでしょうか?」

──という問いがありました。

私も“幸せなのであれば、それでいい”と思います。

そのうえで今回は、両者の違いを「優劣」ではなく、幸福の“根底”の違いとして整理してみたいと思います。

書いているうちに長編になってしまったので、前半・後半に分けて投稿します。


見た目は似ていても、幸福の「根っこ」が違う

一見すると、どちらの人も幸福の中にいるように見えます。

表情も穏やかで、人柄も良く、暮らしも整っている。

外から見れば「同じように幸せ」に見えるかもしれません。

しかし──

「見た目の幸福(表情・暮らし・人柄)」が似ていても、幸福の“根底”はまったく異なる

私はそう感じています。


分離の世界にいるとき、愛は「関係性」の中で起こる

非二元もよくわからない。神との合一にも至っていない。

これは言い換えると、意識の土台がまだ分離の世界にある、ということです。

分離の世界にいる人にとって、愛は主に関係性の中での交流として体験されます。

そこには、

● 愛されることへの期待・喜び

● 失うことへの恐れ・不安

が混じります。

愛は「与えたり受け取ったりするもの」として感じられ、愛に満ちる時期もあれば、愛を見失う時期もある。

どうしても、アップダウンが起こり得ます。

もちろん、ここに到達している奇跡講座の学習者は素晴らしいです。

分離の世界の中で、心を整え、誠実に赦しを実践し、丁寧に生きている。

それは美しく、尊い成熟だと思います。


純粋非二元では、愛は「感情」ではなく“万物の本質”になる

一方で、神との合一に至り、純粋非二元の境地にある人にとって、愛は対象へ向ける感情ではありません。

愛は、万物の本質です。

自分と他者の境界が消えているため、目の前の存在は「私とは別の、愛すべき対象」ではなく、自分自身として現れます。

そこには「私」も「あなた」もいない。

だから愛は、努力して“起こす”ものではなく、ただ常にそこにある光のようなものとして体験されます。

愛は常にあり、アップダウンがありません。


幸福の“次元”が違う

熟達した「分離の世界にいる人」の幸福は、分離の世界の最高到達点と言えるかもしれません。

本当に美しい到達です。

ただしそれは、どうしても「時間の流れ」の中にあります。

つまり、いつか変化する可能性が残る。

一方で「純粋非二元の境地にいる人」は、時間や空間を超越しています。

彼女にとって幸せは、

追求して手に入れるものではなく、自分そのものです。

わたしが幸せの源泉であり、わたしが幸せの大海そのもの。

幸せが「永遠の今」にあるので、永遠に安定しています。

だから両者の違いは、幸福の「量」や「出来事」ではなく、幸福が生まれている“次元”の違いと言えるのだと思います。


「問題」の見え方が違う

さらに、両者は知覚にも大きな違いがあります。

分離の世界にいる人にとって、「問題」は「問題」です。

たとえば電車が遅延したとき、遅延は「問題」として立ち上がる。

だから、

「これは赦しの実践のチャンスだ」

と奇跡講座の教えを想起して、心を整えようとします。

これは素晴らしい成熟です。

“反射で反応する”のではなく、“選び直す”力が育っているからです。

ところが、純粋非二元の境地にいる人の知覚には、解決すべき「悪い問題」が存在しません。

電車が遅れているなら、

「電車が遅れている」

という事実を、完璧な宇宙の表現として

「ああ、そうなんだ」

と、そのまま受け入れる。

そこに「こうあるべき」という理想がないため、ストレスが生じる隙間がないのです。


最も大きな違いは「意思決定プロセス」

そして、もっとも大きな違いは意思決定です。

分離の世界にいる人は、

「聖霊ならどう考えるだろう?」

「テキストにはこう書いてある」

というように、自分のエゴを教えに照らし合わせて修正しようとする努力(意志)が常にあります。

一方、純粋非二元の境地にいる人は、「決断を下している私」という感覚がほとんどありません。

思考が静まり返っているため、行動は直感的かつ自発的に起こります。

お腹が空いたら食べる。

誰かが助けを求めていたら手が動く。

それは呼吸と同じくらい自然な、宇宙の大きな流れの一部としての動きです。


奇跡講座は「地図」なのか、「登り終えた梯子」なのか

分離の世界にいる人にとって、奇跡講座は暗闇の中で頼りにする地図のようなものです。

聖霊も神も「自分とは別の存在」と感じられ、出来事は赦しの機会として現れ、世界はリアルに感じられる。

神や愛を、自分とは別個の「素晴らしいもの(理想)」として捉えるため、その理想に近づく指針として、奇跡講座の教えを杖のように必要とします。

一方で、純粋非二元の境地にいる人にとって、奇跡講座は登り終えた梯子のようなものです。

世界は夢のように感じられ、聖霊も神も「自分自身」として知られ、赦しの対象そのものが消えていく。

奇跡講座が言う「これはカリキュラムである」という言葉の通り、カリキュラムの目的は“習得”です。

習得が完了(神との合一)したなら、もはや奇跡講座は「必要」ではなくなっていきます。

純粋非二元の境地にいる人は、奇跡講座を読まなくても、その存在そのものが奇跡講座の体現となり、
愛そのものとして自然に振る舞います。


後半では「卒業のタイミング」と「見え方の逆転」を扱います

ここまで読むと、

「じゃあ、分離の世界の幸福は意味がないの?」

「純粋非二元のほうが正しくて、他は間違いなの?」

そんなふうに感じる方もいるかもしれません。

でも、話はそう単純ではありません。

なぜなら“分離の世界の幸福”にも、確かに成熟があり、尊さがあるからです。

後半では、誤解が生まれないように、次の点を丁寧に整理します。

● 分離の世界の幸福は“偽物”なのか?(むしろ「卒業の準備」として何が起きているのか)

● 「やりたいことがある人生」から「全体への応答としての人生」へ、何が変わるのか

● サレンダー(降伏)が“特別な境地”ではなく日常のベースラインになるとはどういうことか

● 初心者には「立派」に見え、合一者は「普通」に見える──この“見え方の逆転”

● 合一者が分離の世界にいる人をどう見ているのか(そして、なぜ“必ず帰る”と知っているのか)

(後半に続きます)

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